まわるまわる

感想を置く場にしたい

能楽セミナー『アニメと能楽』に行ってきた話

3/3(日)、法政大学 市ヶ谷キャンパスにて開催された、能楽セミナー『アニメと能楽』に参加してきました。 能狂言鬼滅の刃』、VR能『攻殻機動隊』、能楽師を描いたアニメ映画『犬王』などを例に挙げ、近年のアニメと能楽のコラボレーションについて紹介していくセミナーです。

nohken.ws.hosei.ac.jp

アニメはもちろん、能についても一度観に行ったことがあり、ある程度関心がありました。 また以前読んだ、能にアニメを見出した記事↓が興味深かったことも、参加を決めたきっかけです。

note.com

会場の雰囲気

定員100人とのことでしたが、最終的には満席に近い状態になり、後方スペースに席が追加されるくらいの盛況ぶりでした。 客層は様々で、着物を着ている方も一定数見掛けました。

大学構内で行われることから、学会発表に近い雰囲気や発表内容を想像して多少身構えていたのですが、始まってみると 各講演タイトルの内容だけに留まらず幅広くアニメと能の関わりに触れるような内容で、多くの人が楽しめるようなものになっていました。 (特に対象者を指定していないのだから、ガッツリ専門的というわけでないのはよく考えると当然)

ここからは、各講演の印象的だった点について軽く触れて行きます。 触れられていない点も多く、また記憶違いなところもあると思うので、そういう前提で読んでいただければ。

人の世で「鬼」の姿を目撃すること―能狂言鬼滅の刃』の世界

kimetsu-nohkyogen.com

能では、(鬼も含め)霊的な存在であることを面を付けることで表現されます。 能狂言鬼滅の刃』において、ある鬼が面を付けている(外さない)ことや、付けていないことそれ自体が作中で意味を持つ表現となっているという話が興味深かったです。

その他、伝統芸能に近い部分として、鬼滅の刃における台詞の繰り返し(反芻)なども触れられていましたね。

アニメ映画「犬王」は能楽をどう描いたか

本講演は、アニメ映画『犬王』の監修に関わった宮本圭造氏による、犬王自体や監修内容などの紹介になっていました。 登場時の時間軸では世阿弥ではなく藤若と名乗っていた時期であるとか、当時は太鼓台はなく太鼓持ちであったとか、そういった時代考証を行ったというお話でした。

「舞う」と「踊る」という2つの言葉の違いについても触れられていました。 「舞う」は回転を意識した平面的な運動である一方、「踊る」とは上下運動を含む動きを指す。 能はあくまで舞うものですが、作中の犬王は舞うだけでなく踊っている、という意味でも、当時の能からの逸脱が表現されているそうでした。

intojapanwaraku.com

攻殻機動隊』が「夢幻能」的に見える理由

ghostintheshellvrnoh.com

攻殻機動隊という作品には、義体化、電脳化といった人から人ではない存在に近づいていく概念があります。 人形使いであったり、それと融合した草薙素子は、能で言うシテ(亡霊など)のような存在です。

夢幻能とは、(大雑把に言うと)現実の人間であるワキが、ある場所で主人公のシテからかつての出来事についての物語を聞くもの。 VR能『攻殻機動隊』は、前場攻殻機動隊原作1巻および劇場版アニメ『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』、後場は原作2巻を題材としているそう。 前場では、ワキであるバトーが、電脳空間でシテである(人形使いと同化した)草薙素子を見つけ、素子から話を聞く、という形になっているそうです。 (例として『井筒』が挙げられていましたが)夢幻能では誰かの娘の霊がシテだったりすることも多くあるそうで、後場のシテである素子の同位体も、確かに素子と人形使いが結ばれて生まれた存在です。

また、VR能『攻殻機動隊』は、VR能というだけあり、仮想現実空間を再現する技術を利用しているそう。 攻殻機動隊が、高度に発展した科学技術を題材としつつ能に近い要素も持つ作品であることを踏まえると、能に最新技術を加えた形で上演するのは面白い試みだと思いました。 バトーが馬頭になっていたり、ネットが電網になっている一方で「ゴースト」だけはそのまま、という拘りも良い。

ameblo.jp

スピンオフとしての能

現役の能楽師である川口晃平氏による講演でした。 まず、漫画における省略表現、余白を残した表現に注目していました。 古くから俳句や短歌のように、制限がある中で(島国故か)共通の認識を活かし余白を残した表現が盛んな国でもあります。 漫画におけるそういった余白は、アニメ化では埋められがちという指摘をされていました。 確かに、色が付いたり音が付くだけでなく、コマとコマの間の動きが補完されたり、省略されていた背景絵が細かく描かれたりと、(良くも悪くも)映像として成立させるために想像の余地があった部分も確定してしまう、具体化してしまいがちな傾向は感じます。

一方で能は、無駄を削り落としており、抽象度が高く想像の余地を残した芸能と言えます。 そのため、漫画を能にした場合でも、漫画の余白を残しつつ、別の形で表現できるのではないか。 能の発展には新作能が欠かせないということもあり、漫画が能となる例はもっと増えて良いのではないか、と話されていました。

ラウンドテーブル

登壇者の方々が意見を交換したり、会場からの質問に答える形式でした(いわゆるパネルディスカッション)。 いくつか面白かった話題を挙げておきます。

  • 能とは元々よく知られた物語を、知られているという前提から省略しその一場面を演じるもの。 現代で多くの国民によく知られている物語といえば、それは漫画やアニメだろう。 その意味でも、漫画やアニメの一場面が能となる例は、もっと増えて良いのではないか。

  • 狂言の脚本は台詞だが、能では音楽劇でもあるので謡本であり、台本を作るのは難しい。 自分が言いたくなる言い回しを作れる能楽師がもっと書いていくべきだと思っている。

  • VR能『攻殻機動隊』におけるバトーの面は新たに作ったものであるが、バトーは全身義体ではないため、霊的な存在がつける面は半分になっている

  • 能に向かない、例えば激しいアクションのあるような漫画であっても、能にできないとは限らない。 ある一場面が能の題材として適しているかもしれない。

  • 犬王の楽曲のように現在使われていない楽器が取り入れられる可能性はあるし、例もいくつかある。 一方で、抽象度を保つために、具体化されると感じるような音は入れにくいだろう。

全体の感想

今回の題材が主に原作付きアニメであったこと、能自体が古典文学を原作として持つものであることから、アダプテーションの話題が思っていた以上に出てきました。 アニメと能楽というより、主に漫画と能楽の相性についての話が主体だったように感じます。

「能は既に知られた物語の一場面を演じるもの」というのは、人気原作を最初から最後まで映像化しようという(特に近年の)アニメ制作の流れとは異なっていて、面白いと思いました。 能に不向きに思える作品でも能に向いている場面があるかもしれないという指摘も面白く、やはりメディアにはそれぞれ得意不得意があり、理想は適材適所なのだなと感じます。 アニメ(に限らず映像作品)では、台詞だけで何でも説明するのではなく、目に見える動きで何かを起こすことを推奨されがちです。 例えば、会話のやり取りや心情表現が肝である作品は、(ある程度工夫の余地はあるとしても)そのままアニメにするには不向きだったりしますし。 結局のところ、「メディアの違いを理解せよ!」なのでしょうね(便利すぎる)。

セミナーに参加してみて、能をまた観に行ってみたくなったし、近年の作品を題材にした能も観てみたくなりました。 また、冒頭に紹介した記事にもあったように、アニメもまた、リミテッド・アニメーションだったり、簡略化されたキャラクターの顔の表現であったりと、様々な省略表現が用いられています。 漫画のアダプテーション先、というだけでない「アニメ」自体と能との比較のような話もどこかで聞けたらいいな、とも思いました。