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映画『屋根裏のラジャー』感想

2023年末、『劇場版 ポールプリンセス!!』を観に繰り返し劇場に通っていた中で、他にも何か観ようと思って浮かんだのが本作『屋根裏のラジャー』。 予告からも、想像上の友人「イマジナリーフレンド」を題材とした作品であることは知っていました。 イマジナリーフレンドとは架空の、現実に直接的には影響を及ぼせない存在であり、「物語」もまた、架空の、現実に直接影響を及ぼすことはできない存在。 必然的にイマジナリーフレンドについて語る物語はメタ的な要素を持つことになります。 2023年のイマジナリーフレンドを扱った某作品*1をちょうど思い出していたのもあって、本作を観てみることにしました。

本記事はその感想記事になります。 一度視聴したのみなので、記憶違いな部分もあるかもしれません。 また、一部核心に触れる部分もあるのでご注意ください。

『屋根裏のラジャー』とは?

www.ponoc.jp

スタジオポノック制作の、イマジナリーフレンドを題材としたアニメーション映画。

本作の大きな魅力の一つは、想像上の世界の美しい映像。 この世のものではないファンタジー世界を美しく描いていて、よく動き、観ているだけで楽しさを感じます。

また、想像上の友人を生み出した少女アマンダではなく、想像上の友人(本作では「イマジナリ」と呼ばれます)側のラジャーを主人公とするのも面白い。 人に忘れられたイマジナリはどうなるのか?から始まり、イマジナリにもイマジナリだけの世界があるという設定。 「想像する者」と「創造された者」を始めとし、多くの対比が用いられるところも良かったです。

アマンダの実家が本屋だったり、イマジナリの世界が図書館で、イマジナリが本から栄養を得ていたりと、 イマジナリの存在を「物語」として捉えても(完全に重なるものではないにしろ)あながち外れてはいなさそうでした。

では、本作は爽快で気持ちよく受け取りやすい物語になっているかというと、カタルシスはやや弱めに感じました。 想像上の世界は自由ですが、今を生きているアマンダたちの世界は現実です。 決着が付くのが(おそらく敢えて)現実であることからか、終盤の絵面だけを観るとやや地味に感じてしまうかもしれません。

一方で作品の対立構造、設定や演出は魅力的だと感じ、色々な人の感想を聞いてみたいなとも思いました。 いくつかの観点から掘り下げて見ていきたいます。

想像上の世界と、現実と、どちらにも影響を及ぼせないイマジナリ

本作における想像上の世界では、アマンダを含む多くの子供、そして敵であるミスター・バンティングのような想像する者が大きな力を持ちます。 想像すれば、想像上の世界ではそれが実現するというわけです。

一方で、現実で力を持つのが、大人です。 しかしイマジナリを忘れてしまった大人は、イマジナリも、想像上の世界も見ることはできず、当然想像の力を発揮することもできません。

ミスター・バンティングは、大人ではあるものの、強い想像の力を持っています。 それは、他者のイマジナリを飲み込むことで、何百歳も想像する者であり続けているためです。 一方で、彼は現実世界ではそれほど力を持ちません(不審者として扱われる)。 想像(虚構)と現実、子供と大人の対比の中間に位置し、大人になって想像ができなくなることを自然なものだと捉える本作においては、あるまじき存在として扱われます。

では、想像によって創造されたイマジナリはどうでしょうか。 作中で彼らは、自ら想像して世界に影響を与えることはできません。 それだけでなく、現実世界に干渉することもできません。 彼らにできるのは、想像された世界で一緒に遊んであげたり、イマジナリ同士で捕まえたり程度で、力の弱い存在でした。

傘というキーアイテム

本作で印象的なのが、アマンダとミスター・バンティングが共に持つ「傘」というアイテムです。

アマンダは、普段傘を自室のクローゼットにしまっています。 雨の日に傘を2階の自室まで持ってきて、母親に怒られたりもしています。 その理由は、黄色い傘が、黄色いラジャーの象徴だからでしょう。

(核心部分なので詳細は触れませんが) アマンダは、傘を差しながら涙し、誓いを立てました。 傘を差す行為は、アマンダにとって閉じた自分一人の世界にいることであり、そこで打ち立てた誓いは、自分自身との誓いです。 その時ラジャーが生まれ、アマンダ自身の誓いはラジャーとの誓い(約束)になったのでした。

また、傘を差しているアマンダの姿は、表情や様子を外に隠したような姿に見えました。 傘の内側に描かれた絵を見ると同時に、外には泣いた姿は見せないという意志の表明にも見えましたね。

一方で、同じく傘を持ち歩くミスター・バンティング。 彼は歩くとき、まるで死神の杖のようにコツンコツンと音を立てます。 ラジャーと同様、ミスター・バンティングの傘も彼が引き連れる少女の見た目をしたイマジナリの象徴だと思われます。

彼が傘を使った場面は(覚えている限りだと)冒頭の、掛かりそうになる水しぶきを避けた時。 あくまで「使う」ための傘でした。 最初は彼にとっても思い入れがあって生まれたイマジナリなのでしょうが、彼から少女に話しかけることはなく、ただイマジナリを捕獲するために利用していたように感じました。

イマジナリは(そして物語は)無力なのか?

前述したように、作中でできることの少ないイマジナリ。そんなイマジナリには、そして(イマジナリと重ねられる)物語には、力はないのでしょうか。

もちろん、そうではないでしょう。 アマンダが悲しい中で誓いをしてラジャーを生み出してから、彼女がラジャーと過ごした時間は間違いなく彼女にとって楽しく、心安らぐ時間だったはずです。 たとえ世界に干渉できなくても、寄り添って、傍にいて一緒に遊ぶ、それが救いになっていたのです。 物語も同様で、物語そのものが現実に何か干渉できることはありません。 それでも読んだ人が読んでいる間悲しいことを忘れたり、何かを得て行動に繋げることはできるはずです。

また作中では、ずっと忘れていたイマジナリを思い出し、そのイマジナリが危機から救ってくれる場面があります。 イマジナリを忘れることは自然なことであり、前述したように作中で否定されてはいません。 作中のイマジナリは、言わば補助輪のようなものでしょうか。 子供が現実の厳しさに向き合い始めるために必要であり、大人になって忙しくなったら忘れてしまうこともある。 それでも、何かのきっかけで思い出すことで、救いになってくれることもあるでしょう。

ならば他人のイマジナリを奪うミスター・バンティングの行為は何か。 子供を無理矢理大人にしてしまう、子供の大切なものを大人の都合で奪ってしまう行為ではないでしょうか。 「こんなものにばかり夢中になってないで(現実の)○○に向き合って」のような表現はよく聞きます。 我々は現実を生きているのだから、と他人が言うのは容易いですが、それは他人が受け入れさせることではなく、自ら段階を経て受け入れ、付き合い方を知っていくものです。

『屋根裏のラジャー』という物語もまた、イマジナリのように、それ自体は現実に干渉できない存在です。 それでも各々が心に留め、いずれ忘れてしまっても、何かのきっかけでまた思い出して何かの支えになってくれる。 本作を含めたすべての物語がそんな存在であればいいなと、思いました。

*1:『ワールドダイスター』